昭和52年4月26日 朝の御理解

御理解 第18節
「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」



金光教の信心の、究極の目指しとでも申しましょうかね。生神を目指すと、総生神というふうな事が言われますですね。為には、金光大神が頂かれた、また、食べられた信心を、私共も、神習わせて頂くという事になります。そこで、まぁここでは、私が、今日、この様に、おかげを受けておる。しかも、これから、限りなくおかげを頂いて行こうという願いを持っておる。ですから、ここにお引き寄せを頂く皆さんも、私と一緒に、そういう限りない信心の、言うなら、道を辿らせて頂かねばならない。そこに、言うなら、私と同じ様なおかげが受けられる。ね。今日、只今では、この程度ですけれども、これが、やはり、日々、まぁおかげがいただけれる信心の、本当の信心を求めていくのですから。その本当の信心が、皆さんの上にも、やはり、頂いて行かれなければならない。それは、なかなか、険しいことであり、厳しいことのようであるけれども、そうではない。本気で、言うならば、足並みを揃えて。私も、生神を目指して行くのですから、皆さんも、それに合わせて、その生神への道を辿らせて貰う。だから、何時も、同じところに留まっておってはならないという事なんです。
昨夜、少し早く出てまいりました、もう、十時過ぎでしたでしょうか、ここへ。色々、御用もあったから、それから、そしたら、大口教会の安武先生が参拝しておられた。それで私、御用を終わったのが、もう十一時だったでしょうか。それから、食堂で、色々、末永先生と、安武先生と三人で、まぁお話をさせて頂いたことでした。もう、信心話は尽きぬ。もう限りがない。しかも、合楽の信心を、まぁ言うならば、研究しておられる先生ですから、もう合楽の人達よりも、ひょっとすると、合楽理念のマスターが出来ておられるかも分からない。本当に、勉強しておられるのですから。それで、先生に、何時何時はあぁいう事を、何時何時はあんなことがあった。おかげの泉の中にある事を記憶しておられる。そんな事がありましたかなと、こっちが忘れておるくらいな事である。
なかに、この、先月でしたかね。学院生が、ここへ、修行に、十五日間来ておりました。その中の一人が、先生の知り合いの方でありましたから、どうやった合楽はと言うて尋ねた。そうですね、とにかく、楽しく修行が出来ますよと言うた。ね。本当にあの、合楽理念をマスターする、その行をなしていくという事は、楽しい修行が出来る。私が、ここで、他所から来た先生だからとか、修行生だからと言うて、特別扱いはしない。もう、修行生と同じである。もう第一、食事も、ここは二食だから、二食が覚悟でなからなければ、ここでは修行出来ん。特別に、サービスするわけでもなからなければ、ね。特別の、言うなら、まぁ特訓と申しますかね、をするわけではない。ただ、同じ。そこで、合楽の修行生が、果たして、毎日を、楽しゅう修行が出来ておるだろうかという事なんです。果たして、合楽にご神縁を頂いておる信者の皆さんが、果たして、楽しゅう修行が出来ておるかという事でございます。ね。本当に、例えば、十五日間と言う限られた日にちで、合楽の信心を、まぁ覚えさせて貰おう、習わせて貰おうという、そのかかりが違う、姿勢が違う。そしてほんなら、ここで説くところ、言うならば、合楽理念である。ね。合楽理念は、楽しゅう、有難う、しかも、ね。愉快に出来る。しかも、絶対の道だと説いておる。ね。この道を行けば、もう迷いも起こらん、ね。おかげが頂けるだろうかと言う不安も飛んでいく。何故かと言うと、そこに、一つ一つ、手応えがあるからである。
なるほど、先生が言われるように、この道を歩けば、確かに、ね。進んでいけば、生神と言うところまで、こら行けれるぞと。この世で出来ん時には、あの世まででも持って行けれる信心なのですから、ね。魂の世界に入っても、この道を辿らせて、・・・。私は、この、今、御霊様達に、その、様々な段階の御霊達に申しております事は、それぞれに、やはり、教導が違います。けども、同じにいっておる、私が、祈念のなかに申しておりますことは、ね。とにかく、合楽理念をマスターして、合楽理念に基づいて、御霊ながらの助かりを頂いて下さいよという事なんです。私共も、人間ながらの助かりという事は、生神という事なんです、ね。だから、御霊ながらの助かり。
人間は、全てのものがです、その生神を目指しての信心。それは、朝から晩まで、楽しいことばっかりという事じゃないです。ね。そらもう、歯を食い縛らねばならないように、きつい時もあれば、辛い時もあるです。ね。言うならば、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さという事は、ね。まぁ、朝の清々しさ、昼の腹立たしさ、昼の歯がいさという事にもなるのです。もう、今日は一日、腹の立つことであったと。今日は情けない思いをした一日であったと。けれども、夜は、ね。夜の有難さと言うものが頂けるところに、はぁ信心とは、有難いもんだな、楽しいもんだなという事になるのです。
昨日は、婦人部の信心の研修です、二十五日ですからね。なかで、ある方が、発表しておりました。昨日はもう、皆が、末永先生、言うなら、あちらへ参ります前の日の壮行会の感動が、まだ残っておるものですから、もうみんな、その、本当に、信心というものは、素晴らしいことだなと。それこそ、あの、直方の安藤さんじゃないですけれども、もう帰りにもう、あちらから、四五名ぐらい見えとったでしょうか、自動車一台で帰らせて頂く。本当に、末永先生の心を思い、親先生の思いを思い、もうと言うて話しよったら、運転手が泣き出した。だからもう、車止めて、みんなで泣きましたと言うのです。ね。本当にあの、信心に、この感動がなかったら、いわゆる、今日、私が聞いてもらう、楽しゅう生神へなって行けれる道などとは、到底出来ない。ただ、やはり、苦しいことのみ、信心とは、苦しいことだという事になるでしょう。ね。言いたい事も、じっと辛抱する。ね。したい事も、じっと慎ませてもらう、と言った様な事。けれども、その後には、有難いというものが頂けるから楽しいのです。
昨日、その方が発表しておられる。その方は、はっきり、何時何時、誰々さんの所で、こうこうだったと、その名前を明かしながら、お話をしておられましたけれども。まぁ、差し障りがあっちゃならんから、まぁ、○○さんと申しますが、ね。もうとにかく、朝から、その、言うなら、その人から、まぁ辛く当たられる。こちらから、もの言うても、向こうを向きなさる。ところが、朝の御理解を思い出させていただいて、はぁ今日は良いと、本気で、黙って、有難く受けさせて頂くぞと、もう心に決めた。もう、ですから、どんなに辛く当たられても、それを合掌して受けていった。ね。もう夕方には、今度は、かえって、機嫌をとるように、もうそれこそ、もう、以前も以前から、仲睦まじかったように、それこそ、肩組んで歩きたいほどしに、相手が変っていかれるのを思うて、はぁ信心とは、これだなと思うたと言うのです。ね。だから、そういう例えば、ほんなあ、問題なら問題もです。そういう体験を、一遍、二遍、日々頂いて行くと、ほんなら、どういう問題にぶっつかっても、この生き方さえ、体得していけば、ね。楽しゅう出来るんだという事が分かります。しかも、合楽理念は、そこの所の、いうなら、手掛かりにもなる。または、そういう受け方、生き方を、ね。あらゆる角度から説いてあるのです。そして、結局は、有難いという答えが出てこなければ、今日は、間違いだったぞという事になるのです。
私は、一言で、いうなら、合楽は、どうだったかと、安武先生に聞かれた時にです。そうですな。一言で言うなら、とにかく、楽しゅう修行が出来ますよという事なんですよ。ね。だから、楽しくない、もし修行を、楽しくないお参りであるとするならばです。それは、生神へ向っての信心とは、程遠い、ただ、がりがりの、いうならば、おかげおかげの信心だという事になるのじゃないでしょうかね。私は、どこまでも、生神、勿論、この世でならないなら、あの世ででも、ね。そこを極めて行こうと。ですから、合楽の信心は、何時も、いうならば、斬新である。ね。だから、一月前に言っておったことは、もう今日では、もう過去のものであって、新たなものが生まれておる。ですから、私が、生神を目指すのですから、ほんなら、皆さんもです。生神を目指さなきゃならん。それが金光様のご信心だ。
やはりね、おかげを頂く人、いや、お徳を頂く人、ね。力を、いよいよ、自分で頂いていく人。どこか、ちょっと、少しは変らなきゃいけません。ね。朝参りをさせてもらや、誰だって、朝の清々しさを感じるでしょう。そして、昼の、様々な、皆さんが、御用に携わられる。もうその忙しいことで、目が舞おうごとあるという様なことの中にです。今日は、本当に腹の立つ一日であった。情けない思いをした一日であったと言う様な事であってもです、ね。それを、ほんなら、合楽理念に基づいての、今日一日であるとするならば、それは、楽しゅう、しかも、愉快に、ね。心の中じゃ、しれっと笑いたいぐらいな心が開けてくる。そして、一日を締めくくってみたら、もう神様が、このようにして、信心をお育て下さってあるなぁ。いよいよ、生神へ向っておる、一歩一歩を、自分で確認する事が出来る。
ですから、やはり、信心はね、いわゆる、昨日、私は、あの、片手間の信心という事を、この頃から、皆さんに聞いて頂いたが。あの、安藤さんところの息子さん、雄二君ですね。私共、一家を挙げて、このように熱心に信心しておるごとあるけれども、よう考えてみると、親先生が言われるように、私どもが信心な、片手間の信心ばいち。もう、私は、昨日の壮行会に連ならせて頂いて、あの黒衣を着た、何十人の方達が、あの、ステージに上がって、そしてあの、同期の桜を歌われる時に、もう本当に、信心は、これだ、これが、教師になる希望者も信者も同じだ。ただ、信心を、いわゆる、目当てという事は、おかげと言うものを抜きにしなければね、本当の信心な受けられない。お母さん、僕達の信心な、片手間の信心ばい。おかげ頂かんならん。だから、毎日、お参りしよる。このこともね、願うことは良い、ね。その事で、参ってくることは良いけれども、それは、お取次ぎを頂いて、親先生にお任せして、私達は、今日頂いてきた御教えに、本気で取り組ませて頂く、片手間じゃいかん。それに専念しなければならないと言うて、あの申しましたという話を、自分で発表もして貰いましたが、ここで、そういうお届けをなさっておられました。ほんなこつ、そうじゃろうなぁ、あんたに、言うち来るのは、もう本当、とにかく、お母さんの信心な、ちょっと飛躍し過ぎる感じがするけれど、雄二君の信心な、しっかりしとるのと言うて、話したことでした。ね。とても、お母さんの生き方で行くならもう、近いうち、生神様になろうごつ感じがするですもんね、あっちのお母さんの話し聞きよるなら。ね。もう、何でんかんでん、有難うして、有難うして応えんち言われるとじゃから。そんなら、もう、いい加減、生神様にならじゃんとじゃもん。飛躍し過ぎとる、信心が。ね。ところが、雄二君のつは、もう、私は、毎日お取次ぎさせていただくときに思うのですけれども、この人がいう事は、神様が聞きなさるなと言う気が、毎日するですがね。その上に、ほんなら、真の信心とは、ほんなら、生神へ向っていくという信心は、これは、黒衣を着た人達だけの信心じゃない。これは、信奉者の一人ひとりが、ね。ああいう、ね。ここで修行しておられる方たちの、それに専念しておられるように、これは、信心に専念しなければならないと。ほんなら、専念しなければならないという事は、朝のお参りによって、清々しさを頂くならばです。その、昼の忙しさの中にです、どういう問題があっても、起こっても、その問題を合掌して受けるという、受け方に尽きるのだ。だからもう、晩には、有難いという答えが出てくるのだ。ね。
昨夜、末永先生が、あちらへ奉じしてまいります、あの、ご神具を収めさせて貰うて、御祈念をさせて頂いた。ね。だから、その、どういうところへ焦点を、勿論、先日からも頂くように、自らを治していくという事を頂きましたが、昨夜は、朝な夕なという事を頂きました。朝な夕な、朝日を拝む人はあるけれども、夕日を拝む人が無い。朝の信心は、素晴らしい信心をされるけれども、夕方のころには、もう乱れてしまって、ね。もう、こんくらいのこっだという風になってしまう。だから、おかげを頂く人はね、その辺の所が、ちょこっと違うそうです。ね。最後の締めくくりが違うです。ね。あちらへ行ったら、もう行った途端から、言うならば、花が咲いたような感じの御比礼が立つだろう。けれども、それは、本当なものじゃない、それはあんたのものではない。その花が散って、その次に咲く花が、末永建夫の信心だと。だから、行った、花が咲いた、はぁもうこれで、この通りで行けばと言う油断をするなと言うようなお知らせも頂きました。皆さんでもそうです。始めの間は、ようおかげを受ける、ね。けれども、締めくくりが悪いから、おかげが、そこから漏ってしまう、ね。なるほど、朝な夕なを大事にしなければならない。朝日を拝む人はあるけれども、夕日を拝む人が無い。その夕日に向って、今日一日もおかげを頂いてと、いわゆる、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さと言うもので締めくくっていく、その有難さが、答えとして出てこんならばです、出てくるまで、修行させてもらわにゃいけませんと言うくらいに、厳密に頂いていかなきゃいけない。
不思議です、ほんなら、今日の一日が、中身が、がたがたであって、有難くなろうと思うても、有難い夜の有難さがないとするならばです。一日を思うて見ると、はぁ、有難くなれんはずは、あそこも合楽理念に基づいての生き方じゃなかった。あそこも教えに反しておったという事が、ばーっと、それこそ、走馬灯のように、心の中に感ずるでしょう。なるほど、これじゃ有難くならなかったという事が分かるですから、神様、すみませんと言うお詫びが出来てこにゃならん。だから、真剣なお詫びをさせて頂いておるとです。不思議に、神様が、ほんなら今日は仕様がなかたい、堪えてやろうと言いなさるような感じがするです。そすと、途端に、また有難くなるから不思議だと。ね。もうその、すみませんと言うたのでは出来ん。本当に神様が、それを許して下さったと感じれるくらいな、ね。お詫びでなからにゃいけん。そこに、ほんなら、有難いという答えが出てくる。でなかったら、明日の日は迎えられないというくらいな実績を持つ。いわゆる、信心に専念するという事は、そういう事なんです。ね。いわゆる、片手間ではない。信心と言うのはそれなんです。ね。もう仕事の片手間に信心をする点なんて、もう、信心が芯なんです。もう信心が全てなんです。ね。
お互いがね、その生神への精進をです、いよいよ、なそうと思えば、子供でもなせるような事柄を、おろそかにせずに、ね。本気で、その信心を体験させて貰う。例えば、良くここで、信心の卸小売という事を申しますが、ね。卸売りとなれば、どれだけ、沢山な人が、沢山な商品を仕入れに来ても、ね。なんぼでも、そのそれを、卸売りにして上げれるだけの内容が要ります。小売ならば、あぁ今日は、品切れでございます。あぁ、もうあれは仕舞えましたで良いけれども。卸は、そういう訳にはいきません。皆さんがね、その卸売りを一つ、ね。卸売りの出来るようなおかげを頂くために、体験を、日々積んだ上にも、積んでいかなければなりません。ね。沢山の体験、それが、毎日毎日、生まれてくる体験なんです。ですから、どういう大きな仕入れに見えた人があっても、「はい」と言うて差し上げることが出来る。ね。もう体験ほど、私は、体験を沢山積んで、有難い体験を積んでいくという事がです、ね。いわゆる、卸売りだと思う。ね。卸売りの信心。ね。生神へ向かっての精進。しかも、その気になり、専念させていただくなら、一切が、ね。有難くならせて頂く材料ばっかりである。ね。その材料を無駄にしてはならないという事であります。
みんなも、その通りのおかげが受けられる。ですから、生神金光大神のと言うと、ちょっとこう、離れ、距離がね、離れすぎます。そこでほんなら、ここでは、私が、おかげを受けておる、日々さらな信心を求め続けて、目指すところは生神。この世で出来んなら、あの世に行ってでも、やはり、生神を目指して、魂の清まりと言うか、ね。生神を目指しての信心をすることでしょう。だから、皆さんもです、ね。どういう処方からでも、目指すとっころは生神だという事が、合楽理念なんです。ね。だから、絶対の道だと言われるのです。その道を歩けば、生神になれれるという。絶対の道なんです。その過程に起きてくる、様々な事柄、その問題は、全てが、生神への、言うならば手掛かりであり、ね。生神への、示されるところの道案内なんです。為にはね、私共は、片手間の信心から、ね。それに専念しておる私達。ね。小売業から、卸行を目指しての信心。ね。
だから、教祖生神金光大神は、なかなか、その通りと言う様な事は、それこそ、まだ難しいでしょうけれどもね。大坪総一郎が受けておるおかげならば、皆さんでも、見やすう頂いていけれる。しかも、楽しゅう、ね。信心が、いわば、修行が出来るというのが、まぁ言うならば、合楽の信心じゃないかと、こう思います。ね。信心修行が楽しゅうなるところまで、一つ、信心を進めて行きたい。そうなったら、もう信心も、揺るぎがない、ね。辛い、苦しいという事。そこから、ただ、おかげを頂きたいというだけではね。やっぱり、疲れが出ます。いわゆる、おかげを頂いたら、もう安心する。いわゆる、朝は大事にする。けれども、夕を大事にする生き方を身に付けていくという事が、実意丁寧神信心という事になると思うです。生神の、その芯になるものは、やはり、実意丁寧神信心が芯だと思いますね。どうぞ。